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つくしの魅力「春日市 奴国の丘公園」

このブログ記事は2014年に投稿された内容です。つくし青年会議所は1年ごとに役職や活動内容が刷新されますので、この投稿の内容は最新のものではない可能性がございます。予めご了承下さい。


 
日本という国が歴史書に初めて登場する記述は、紀元1世紀ごろの中国の歴史書「後漢書」東夷伝といわれています。

 

 

その東夷伝の記述によれば西暦57年頃、倭の「奴国」が後漢の光武帝に使者を出し、かの有名な志賀島の「漢倭奴国王」の金印を授与されたとあります。

 

この記述は「奴国」の王は正式に認められ、中華帝国を中心とした外交秩序の中の国の一国であったことを示しており、当時、小国に分裂に抗争していた倭国の中でも「奴国」は特に有力な国であったと考えられています。

 

その「奴国」の中心地であったと考えられているのが春日市岡本周辺です。

 

 

春日市岡本周辺には弥生時代の遺跡が密集しており、国指定史跡の須玖岡本遺跡もその中のひとつです。
1979年・80年の発掘調査で、弥生時代中期の甕棺墓(かめかんぼ)116基、土壙墓(どこうぼ)・木棺墓(もっかんぼ)9基と、これに伴う祭祀遺構が検出されました。

 

その他にも多数の墓壙が検出されていることから、一部破壊を受けたところを含めると、埋葬遺構は300基以上におよんでいたと推定されています。

 

また、西側の一段低くなった平坦面は住居跡が発見され、同時期に営まれた墓地と集落の存在が明らかになりました。これらは、弥生時代の墓地と集落との関係を理解するうえで貴重な遺跡として、1986年に国の史跡に指定されました。

 

[写真0]

 

 

現在、その須玖岡本遺跡を中心に周辺の緑地や溜池を含めた約2.3ヘクタールの区域が歴史公園として整備され、奴国の丘歴史公園として親しまれています。

 

[写真1]

 

公園の中には覆屋が2棟あり、紀元前1世紀頃の甕棺墓群の一部や祭祀遺構、土壙墓、木棺墓、竪穴遺構などが見学できます。
他にも1899年(明治32年)に発見された4トンにもなる甕棺墓(王墓)の上石や考古学、民俗学資料などを展示した歴史資料館などもあり、当時の国の様子を
うかがい知ることができます。



[写真2]

 

 

この、須玖岡本遺跡、奴国の丘公園の周りは古くから福岡市のベットタウンとして多くの人々が多くの住居を建て生活しています。
当時は最先端技術であった青銅器生産の跡には現在では市民の住居が建ち、当時大帝国であった中国と外交をしていた奴国王の王墓の跡にも、現在は市民の住居が建っていて現在は出土品と甕棺墓(王墓)の上石を残すのみです。

 

奴国の丘歴史公園は自分たちの足の下に常に何千年もの歴史があることを思い出させてくれる場所だと思います。

もし興味のある方は是非、一度お越しください。

 

 

 

 

 

 

 


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