このブログ記事は2015年に投稿された内容です。つくし青年会議所は1年ごとに役職や活動内容が刷新されますので、この投稿の内容は最新のものではない可能性がございます。予めご了承下さい。
おはようございます!!
本日も、気合入れMAXの会員拡大・広報委員会の木下です。
皆様連休ですね(*>ω<)v
ということで、今回は、太宰府の数ある歴史的遺構から有名な「大宰府政庁跡」についてレポります(^O^)/
太宰府と言えば、太宰府天満宮です。
それこそ江戸より昔、太宰府天満宮に参ることを「さいふまいり」と言っていました。
ここの鳥居は、太宰府天満宮から2キロくらい離れているのかな?
実は自分が住んでるすぐ近所にあります。
西鉄都府楼前駅を降り、関屋橋を渡るとるとあります。
一の鳥居と言われ、
太宰府天満宮に参るには、この鳥居をまずくぐっていきます。
今では関屋の交差点として太宰府の交通の要所です。
日田に行く道と太宰府天満宮に行く道に分かれています。
そして、太宰府と言えばここ大宰府政庁跡です
唐の長安を模して、
日本の平城京、平安京に次ぐ規模の都市でした。
条坊制が敷かれ、
南北22条2.3キロ、東西12坊2.6キロ。
今でも、住所に三条や五条というのが残っています。
ちなみに木下薬局五条店は、五条です
京都のように、
碁盤目状には残って荷のが残念です。
政庁跡を南から北に向かって立つと、
東側にこんもりとした小山があります。
小学生だったボクは、
あそこで秘密基地を建設していたのですが、穴を腰あたりまで掘って断念したところです…
実はこの山、当時は水時計が置かれ、時を告げる大切な役目がありました。
そのためこの山は「刻山(ときやま)」が訛って、現在では「月山(つきやま)」と言います。
この山の裏の小字も「月山」です。
小学生のころ、遠足の場所は大抵ここだったのですが、
「何にもねぇところだなぁ~」と小学生なりにフテったのですが…
今では歴史ロマンを感じずにはいられない、ホットスポットです
ぐるっと回廊跡があります。
この礎の上に柱があり、建物があったと想像すると、自分の歴史探訪のスイッチが入ります。
これが1200年前の礎の本物の石です。
この政庁跡は、自分が産まれる昭和50年代よりちょっと前には、
高度成長のあおりで、歴史遺跡保存よりも、宅地開発化の波に巻き込まれた場所でした。
よくぞ守ってくれました。
当時の人に感謝です。
正殿址には、「都督府古址」の石碑があります。
この石碑が最も古く、明治初期に高原善七郎さんが…自費で建てたものです。
後ろには太宰府の北の守りの大野城があった、四王寺山が見えます。
東は、宝満山が守ってます。
都にはうってつけの土地ですね。
ここ政庁跡には、
本当に柱の礎の石がたくさんあります。
太宰府は、政所(まんどころ)、公文所(くもんじょ)、蔵司(くらのつかさ)をはじめ、
19の役所がありました…
今では、そんな霞ヶ関並みの役所があったことは、
遺構から想像するしかありません
太宰府と切っても切れないのが、万葉和歌です
万葉集に記載される太宰府にまつわる歌は、万葉集第五巻に記載されています。
その政庁跡を守るように
坂本八幡宮という、こじんまりとした神社があります。
この辺りは、
当時の太宰府の最高権威にあった
大宰帥(だざいのそち)大伴旅人(おおとものたびと)の館があったとのことです。
そこに、「がらんさま」という石碑があります。
「がらんさま」とは、「がらんさま」を漢字で書くと「伽藍様」になるのでしょうね。
「伽藍」は寺院の主要な建物を指す言葉。
だから「がらんさま」は「伽藍」を守る神様だったそうです。
とはいえ、ここ坂本八幡宮は「となりのトトロ」にも出てきそうな所です♪
この広場は、学校院跡です。
簡単に言うと、官吏養成学校の址です。
今は、見ての通り田園の中にあります…
ただこの中心のカイノ木は、
唐の時代に中国の孔子廟から持ってきて育てたシンボルツリーです。
秋に色づいたら本当にきれいです
ということで、太宰府に来た際は、足を延ばしてこちらの世界に誇れる遺構の散策もお勧めです(*>ω<)v