このブログ記事は2016年に投稿された内容です。つくし青年会議所は1年ごとに役職や活動内容が刷新されますので、この投稿の内容は最新のものではない可能性がございます。予めご了承下さい。
こんにちは。総務・例会運営委員会の日下部です。
以前、春日市の名前の由来についてブログをアップさせて頂きました。その第二弾です。今回は太宰府市についてご紹介します。
まず、太宰府は元々大宰府(点がない)で表記をされておりました。この名前、「大宰」と「府」が一つになり「大宰府」となります。「大宰」とは、天皇の詔(勅旨)を受けてその地区を治める官のこと。そして「府」が役所となります。
歴史的にみると日本書紀にあります「那津官家」(なのつみやけ)とそれが発展した「筑紫大宰」がその前身ではないかと言われており、その後の「筑紫大宰府」となります。それが今に至るわけです。
しかし、それだけでは今の太宰府市という名前は存在しませんでした。
大宰府の名前は701年、大宝律令によって太宰府市だけのものとなります。大宝律令は国号が「日本」となったまさに日本の起源である法令です。本来、大宰とは、現在の太宰府という場所を指すものではなく天皇が詔によって治める要所であったことから、実は、吉備などにも存在していました。それが、大宝律令により他地区は廃止されるのです。他がもし存続していたら、、、、現在の市名は筑紫太宰府市かもしれませんし全く異なった名前かもしれません。古代大宰府は、西国の統括とアジア(中国・朝鮮)の玄関口としての役目から大いに発展しました。
郷土の名前の歴史を知ると、新しい発見があります。それも郷土の魅力の一つです。
参考文献:太宰府紀行 森弘子監修 海鳥社
